2024 0714 第48回 公式巡検「すさみ町広瀬谷渓谷-山本一族の隠れ里を訪ねて」
2024 0714 白鳥運動公園駐車場に9:30 集合 10:00琴の滝荘前にて説明後、軽トラ等に分乗して琴の滝を見物後、渓谷を上流に向かって通過、途中軽トラをデポして、一族の広瀬谷の里まで歩行&散策後、ピストンでした。
広瀬谷は植林で暗い感じでしたが、合流部分の石垣は残っており、右岸のお屋敷跡まで行くことができました。お屋敷跡の巨大な台杉が元気に残っており、一見の価値ありです。多分、鑑賞用に台杉を植えたのではないかと想像します。幸運に降雨が無く楽しい活動になりました。
*渡瀬氏にまとめていただいた内容を以下に添付します。的確なまとめ感謝いたします。
すさみ町 広瀬渓谷を歩く 田辺ジオパーク研究会 2024.7.14
広瀬渓谷は「すさみ八景」の一つに挙げられる景勝地ですが、今回は「琴の滝」のさらに上流部、「山本氏一族」の隠れ里と伝えられる地を目ざします。
・広瀬渓谷の地質
広瀬渓谷一帯の地層は四万十帯の牟婁層群中部である打越層、堆積年代は新生代古第三紀始新世(およそ4千万年まえ)です。
岩質は砂岩、砂岩泥岩互層、礫岩ですが、 熱水変質帯にもあたり、より硬く変質しており、河床に甌穴が作られつつあるのも見どころの一つです。「紀伊続風土記」に下戸川から広瀬へ越える 「水晶峯」 の記述があり水晶が採れるとされているのは、熱水鉱床がもたらしたものでしょう。
・山本氏とは
山本氏は上富田町(中世には櫟原荘いちはらのしょう) 周辺を支配した有力者で、室町時代初頭には南朝方として活動しましたが後には北朝方に転じ、 以前、当会で訪れた日高の玉置氏、 湯河氏と並んで、室町幕府の奉公衆 (将軍直属軍)となりました。 奉公衆とは平時は将軍御所の警備や外出のお供、 有事には将軍の親衛隊として活動するために組織された、 地方武士のエリートで日頃は京都に在住していました。室町時代に長く紀伊国守護を勤めたのは畠山氏でしたが、奉公衆は守護の支配を受けず、いわば守護の牽制者としての役割も担っていました。
山本氏の本城は上富田町市ノ瀬に今も残る 「龍松山城」 です。 富田川の対岸にあり近年発掘調査が行われた 「坂本付城」が居館跡ではないかとも言われています。
・「紀州攻め」 と山本氏
天正13(1585)年、豊臣秀吉は「紀州征伐」と称して紀伊国に侵攻してきます。同母弟である秀長を総大将として、抵抗した根来衆や雑賀衆、湯河氏などを席巻します。 紀南では安宅氏、 小山氏、 周参見氏などは服従しましたが、山本氏は抵抗勢力として戦いました。 結局、 湯河氏や山本氏は没落してしまいますが、翌年まで抵抗勢力を糾合して粘り強く戦い (熊野一揆)、手を焼いた秀長自らが出陣するという事態にもなったようです。 龍松山城主、山本主膳正康忠の最期については諸説ありますが、 天正14年に降伏した後、 秀長の居城がある郡山に連れていかれ家臣とともに処刑、奈良の大安寺近くに首がさらされた、という説(一次史料である「多聞院日記」 に記述)が現在のところ有力です。
上富田文化の会が今年4月に発行した『上富田文化財増刊号2』には、山本氏一族のその後について、 ①嫡子亀之助が大塔村下川下竹の又で百姓として土着 ②すさみ町広瀬谷へー子因幡が母や家来とともに隠棲、 ③子孫が一人残り、結城秀康に仕える、という3つの山本氏一族のその後が述べられています。 上記②は 「すさみ町誌』 や 『周参見村郷土誌』、 『栄枯盛衰』 (山本健吉氏自費出版)に詳述されていますが、大略は次のようです。
・広瀬渓谷と山本一族
天正15年、山本主膳正康忠の内室と一子因幡 (いんば)、 田上右京をはじめ郎党とあわせ16名が、 周参見主馬太夫氏長 (周参見城・藤原城 中山城)を頼ってきたので、 氏長は家来の宇都宮氏 (神田城) に命じて広瀬谷に隠棲させることにした、ということです。
周参見氏は大百足退治の伝説で有名な藤原秀郷 (俵藤太)の末裔を称し、応永8(1401)年に藤原城を築いて土着したとされています。 山本氏は直接的に対峙することが多かった安宅氏より周参見氏との関係が良かったのかもしれません。
山本氏一族は広瀬・ 下戸川 上戸川など周辺地域を開墾し、家来たちも分散在住しました。 広瀬には春日神社、 下戸川には諏訪神社が旧領地から勧請されたとのことです。 江戸時代になり、主家である山本氏は寛永年間には紀州藩から 「地士」 として認められ、元禄年間に広瀬谷から周参見へ転居し、 萬福寺東裏に住んで屋号を「御庵(ごあん)」といったとのことです。
広瀬渓谷や下戸川に住み続けた家来筋の家々もあったようで、江戸時代末期の宗門改帳には 「山本一族24戸、 150余名」 とあり、 山本一族の主従関係は明治まで続いたとすさみ町誌には記されています。
また初代周参見村長山本康一郎氏の三男として御庵屋敷で生まれた山本弘毅氏は海軍中将となった人で、山本氏末裔として有名です。 昭和9年には軍艦伊勢の艦長として周参見に里帰りもしています。 また、山本氏家老の末裔であり昭和初期から山本氏顕彰に努めた田上憲一氏(現在の大阪工業大学の前身である関西工学専修学校の創設に協力し後に理事長も務める) が上富田の龍松山城跡に建立した「龍松城之記」碑にも名を連ねています。
『紀伊続風土記』にも周参見村の旧家として、 周参見氏と山本氏が記されていることから、江戸時代を通じて周参見の山本氏が市ノ瀬龍松山城主の山本氏の末裔であると認識されていたことは確かです。
(文責 渡瀬)
琴ノ滝にて集合写真 行く気満々
山本一族活動エリア
広瀬谷は植林で暗い感じでしたが、合流部分の石垣は残っており、右岸のお屋敷跡まで行くことができました。お屋敷跡の巨大な台杉が元気に残っており、一見の価値ありです。多分、鑑賞用に台杉を植えたのではないかと想像します。幸運に降雨が無く楽しい活動になりました。
*渡瀬氏にまとめていただいた内容を以下に添付します。的確なまとめ感謝いたします。
すさみ町 広瀬渓谷を歩く 田辺ジオパーク研究会 2024.7.14
広瀬渓谷は「すさみ八景」の一つに挙げられる景勝地ですが、今回は「琴の滝」のさらに上流部、「山本氏一族」の隠れ里と伝えられる地を目ざします。
・広瀬渓谷の地質
広瀬渓谷一帯の地層は四万十帯の牟婁層群中部である打越層、堆積年代は新生代古第三紀始新世(およそ4千万年まえ)です。
岩質は砂岩、砂岩泥岩互層、礫岩ですが、 熱水変質帯にもあたり、より硬く変質しており、河床に甌穴が作られつつあるのも見どころの一つです。「紀伊続風土記」に下戸川から広瀬へ越える 「水晶峯」 の記述があり水晶が採れるとされているのは、熱水鉱床がもたらしたものでしょう。
・山本氏とは
山本氏は上富田町(中世には櫟原荘いちはらのしょう) 周辺を支配した有力者で、室町時代初頭には南朝方として活動しましたが後には北朝方に転じ、 以前、当会で訪れた日高の玉置氏、 湯河氏と並んで、室町幕府の奉公衆 (将軍直属軍)となりました。 奉公衆とは平時は将軍御所の警備や外出のお供、 有事には将軍の親衛隊として活動するために組織された、 地方武士のエリートで日頃は京都に在住していました。室町時代に長く紀伊国守護を勤めたのは畠山氏でしたが、奉公衆は守護の支配を受けず、いわば守護の牽制者としての役割も担っていました。
山本氏の本城は上富田町市ノ瀬に今も残る 「龍松山城」 です。 富田川の対岸にあり近年発掘調査が行われた 「坂本付城」が居館跡ではないかとも言われています。
・「紀州攻め」 と山本氏
天正13(1585)年、豊臣秀吉は「紀州征伐」と称して紀伊国に侵攻してきます。同母弟である秀長を総大将として、抵抗した根来衆や雑賀衆、湯河氏などを席巻します。 紀南では安宅氏、 小山氏、 周参見氏などは服従しましたが、山本氏は抵抗勢力として戦いました。 結局、 湯河氏や山本氏は没落してしまいますが、翌年まで抵抗勢力を糾合して粘り強く戦い (熊野一揆)、手を焼いた秀長自らが出陣するという事態にもなったようです。 龍松山城主、山本主膳正康忠の最期については諸説ありますが、 天正14年に降伏した後、 秀長の居城がある郡山に連れていかれ家臣とともに処刑、奈良の大安寺近くに首がさらされた、という説(一次史料である「多聞院日記」 に記述)が現在のところ有力です。
上富田文化の会が今年4月に発行した『上富田文化財増刊号2』には、山本氏一族のその後について、 ①嫡子亀之助が大塔村下川下竹の又で百姓として土着 ②すさみ町広瀬谷へー子因幡が母や家来とともに隠棲、 ③子孫が一人残り、結城秀康に仕える、という3つの山本氏一族のその後が述べられています。 上記②は 「すさみ町誌』 や 『周参見村郷土誌』、 『栄枯盛衰』 (山本健吉氏自費出版)に詳述されていますが、大略は次のようです。
・広瀬渓谷と山本一族
天正15年、山本主膳正康忠の内室と一子因幡 (いんば)、 田上右京をはじめ郎党とあわせ16名が、 周参見主馬太夫氏長 (周参見城・藤原城 中山城)を頼ってきたので、 氏長は家来の宇都宮氏 (神田城) に命じて広瀬谷に隠棲させることにした、ということです。
周参見氏は大百足退治の伝説で有名な藤原秀郷 (俵藤太)の末裔を称し、応永8(1401)年に藤原城を築いて土着したとされています。 山本氏は直接的に対峙することが多かった安宅氏より周参見氏との関係が良かったのかもしれません。
山本氏一族は広瀬・ 下戸川 上戸川など周辺地域を開墾し、家来たちも分散在住しました。 広瀬には春日神社、 下戸川には諏訪神社が旧領地から勧請されたとのことです。 江戸時代になり、主家である山本氏は寛永年間には紀州藩から 「地士」 として認められ、元禄年間に広瀬谷から周参見へ転居し、 萬福寺東裏に住んで屋号を「御庵(ごあん)」といったとのことです。
広瀬渓谷や下戸川に住み続けた家来筋の家々もあったようで、江戸時代末期の宗門改帳には 「山本一族24戸、 150余名」 とあり、 山本一族の主従関係は明治まで続いたとすさみ町誌には記されています。
また初代周参見村長山本康一郎氏の三男として御庵屋敷で生まれた山本弘毅氏は海軍中将となった人で、山本氏末裔として有名です。 昭和9年には軍艦伊勢の艦長として周参見に里帰りもしています。 また、山本氏家老の末裔であり昭和初期から山本氏顕彰に努めた田上憲一氏(現在の大阪工業大学の前身である関西工学専修学校の創設に協力し後に理事長も務める) が上富田の龍松山城跡に建立した「龍松城之記」碑にも名を連ねています。
『紀伊続風土記』にも周参見村の旧家として、 周参見氏と山本氏が記されていることから、江戸時代を通じて周参見の山本氏が市ノ瀬龍松山城主の山本氏の末裔であると認識されていたことは確かです。
(文責 渡瀬)
琴ノ滝にて集合写真 行く気満々
山本一族活動エリア